2011年3月12日の晩、友人からかかってきた電話を切った直後
「すぐに出発だ」と夫が言った。幸いガソリンは満タンだった。
私たちは避難所から自宅に戻ることなく、福島を離れた。
 
 あれから5年以上になるが、子どもたちは一度も福島に戻っていない。
当時2歳だった娘は、福島のことをもうほとんど覚えていない、
小学校入学直前だった息子は来年は中学生になる。

 吾妻山、安達太良山を望む川沿いの土地に家を建て、子育てする夢は
諦めなくてはならなくなった。
 狭い借り上げ住宅、3枚の布団に4人で寝る生活の中、家を設計することが
息子の将来の夢になった。
 
 もう5年、まだまだ5年。まだまだ渦中の私たち。
見通しのきかないということがこんなにしんどいとは思わなかった。
家族のからだとこころの健康が何より一番大切だと、守らなくてはと、
子どもたちとの何気ない日常を大切に過ごす日々。
私たちはいつかこの日々をどんなふうにふりかえるのだろう。

 家族として生活しはじめ、子どもたちを授かった福島
絶たれた縁、失った時間はとても大きく、取り返しがつかない。
けれど、より深いものに気づき、より温かい縁にも恵まれて、
私たちはとりあえず元気に生きています。

 子どもたちを日々守っているつもりだったけれど、
守られていたのは私たちでもあったね。
 この子たちの未来を見据えたら、大切なことが何か、
心がぶれることは無い。
 大切な、かけがえのない、家族。

 

( 福島市→新潟市 父親の意志により新潟へ母子避難 )

 

震災後は 放射線という目には見えないものに怯えながら暮らす日々でした。子供たちを家の中に閉じ込めて
とにかく 外には出てはいけないと言い聞かせました。子供も親もストレスが溜まっていきました。一緒に暮らす祖母に家の中を走り回る足音がうるさいと叱られる子供たちが可哀想で 祖母と口論になったりしました。今 思えば 家族みんながストレスを抱えていたのだなぁと思います。
幼稚園が始まり マスクをしての登園。帰りに時々 マスクを外して帰ってくることがあり
マスクしなくちゃダメだよ!と叱ったこと
道端の花を摘んで帰ってきて ママにプレゼント って言われた時は
放射能付いてるから絶対触っちゃダメ!お家の中に入れないで!と言ったこと とにかく
子供たちには 触っちゃダメ しちゃダメと制限ばかりの毎日でした。

実家が農家で 、おばあちゃんが作った野菜もう食べられないの??と言われた時は
本当に辛かったです。

震災から 三年が経ちましたが 福島の復興はまだまだだと感じています。

ただこの三年で分かった事は 福島や福島の子供たちを思ってくれる人たちが たくさんいるということです。震災がなければ出逢えなかった人や繋がりに感謝しています。

(震災当時福島県二本松市在住・三児の母)

「ダキシメルオモイ5年目の決意」

避難時〜1年目

子育て方針のあう保育園探しに翻弄された。でも、望むようないわきで通ってた保育園のようなところには預けられなかった。愛する我が子を、自分の思う子育て方針「水と土と泥が子供のすべての学びの基本である」それをものすごく悔しい思いで断念した。そうしなきゃ避難生活維持できなかった。公立保育園に預けがむしゃらに働いた。離婚、親との絶縁。がむしゃらにはたらき大事なもの失いだした、、、。


1年目〜2年目

無我夢中で働いた。風邪で高熱の息子を朝、往復40分かけ病児保育に預け、仕事終わってまた往復40分。そして息子を肺炎になるまで無理させ入院まで追い込んだ。私の大事なもの、まったく見えなくなってた。


2年目〜3年目

休職、引きこもり、契約更新ならず退職、、、、。なんのために産まれ、なぜ子供を産んだのか、見失って死にたい毎日だった。


3年目〜今まで

死にたい生活に光が射した。勇気を出し一歩出だした時に世界が広がった。味方がたくさんいた。すべてが敵に見えてた私に味方がいることきずかせてくれた。そこからたくさんの奇跡的な出会いを繰り返し我を取り戻した。


「大事な我が子」


我が子だけじゃない、すべての母が我が子をそう思う。

その思いで母達は繋がれる。


だれのこどももころさせない


その思い一つ。

未来の子供達を守るべくできることやり尽くすことを誓う五年目になります。

出逢いと我が子に感謝しきれません。


     ( 福島県いわき市 ⇒ 埼玉県 二児の母 )

仕事で東京を離れられない夫を残し、母子避難を決めたのは2012年の春。

原発事故後に、子どもたちの身体に起こった、連日の鼻血や喘息などの体調悪化を受けての決断でした。

家族揃って受診した甲状腺検査では、子どもたちだけに血液の異常が見つかりました。


頭では分かっていても、仕事やそれまで築き上てきたコミュニティを失うことは、身を切られるほど辛く、

家族や友人を、全て振り切って避難を決めたことに、どこかで罪悪感を感じながらの3年。

金沢と東京での二重生活で金銭的な問題も圧し掛かる中、夫が金沢に来れるのは多くて月に一度。

久しぶりに家族揃って過ごす時間は、濃密で、子どもたちの笑顔がはち切れんばかりのキラキラとした時間です。


けれども、パパと「じゃあ、またね」と手を振った後に、淋しさを押し殺して、むっつりと黙り込んだかと思うと

「へっちゃらへっちゃらー」と騒ぎ出す子どもたちを見ていると

申し訳なさと、ぽっかりと空いた心の隙間の大きさに押しつぶされそうになるのです。


そんな時、此処に来なければ出会えなかった仲間たちが、そっと背中を支えてくれます。


家族のように心を寄せ合い、共に笑い、時には一緒に泣いて、抱きしめあえる沢山の大切な人たちに救われて、今日を生きています。


手放したものもたくさんあったし、

原発事故を肯定することなど出来ないけれど


子どもたちを守りたい。

その思いと感謝を胸に

しっかりと前を見て、大地を踏みしめて歩んでいこうと思います。


(東京都 ⇒ 石川県 二児の母親)


ダキシメルオモイ プロジェクト、活動してから4年間の出逢って描いてきた作品、

出逢ったそれぞれの家族のオモイを掲載した冊子
B5サイズ、48ページ ¥1000 (税込) 送料別  ※展示会場でもお買い求めいただけます。

 

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